ピエモンテの仔猪
今年の干支は猪。食いしん坊は即座に猪料理を思い浮かべると言いたいところだが、僕の食の思い出の引き出しの中での猪は意外と少ない。猪といえば「ボタン鍋」と呼ばれる鍋料理がポピュラーでその昔丹沢で食べたことがある。だが、古すぎて思い出がぼやけてしまった。次に猪に接したのは六本木にある「盧談」という一風変わった美味いもの屋的バー。ここでは猪の生ハムを食べたが、これとて２０年以上前のできごと。最後に接したのは、２００２年の秋に食べたイタリアのピエモンテの仔猪。このときのことはよく覚えている。
妻と娘を伴ってミラノからナポリまで飛行機でいったん下り、アマルフィーに滞在後、グッビオ、フィレンツェ、パルマと、ウンブリア、トスカーナ、エミリアロマーナと泊まり歩きながら車でミラノまでもどってくる旅行だった。出だしのミラノでは慌ただしい市内は避け、車で一時間ほどの距離にあるマジョーレ湖畔のIl
Sole di Rancoという宿付きレストランに三泊ほど逃げ込む予定。が、到着翌日の火曜の夜は厨房が休み。ディナーだけどこか他のレストランを探さなければならなかった。そんな中、出発前にネット版のミシュランでヒットしたのが近くの湖畔の町のイスプラにある星付きのレストランのSchuman 。ここは日本で得られるガイドブックの類には載っていないが、ミシュランの記事によればまだ若いシェフが意欲的な料理を作っているらしく、即座に予約を入れた。
マルペンサ空港でレンタカーを受け取った僕たちは夜道を迷いながらIl Sole di Rancoにたどり着き、イタリアに着いた感激もそこそこにベッドに直行した。翌朝は目の下に広がる紺碧のマジョーレ湖。イタリア一番と評されたこともあるそこでの朝食を堪能した後、町まで出て最新のロードマップを買って旅はスタート。その日はスイスにあるアウトレットまで車を飛ばして一日を過ごし、いよいよイタリア第一回目のディナー。
イスプラの町も真っ暗で、捜し当てた番地にはほのかな灯が洩れる古びた建物。湖の魚料理を意味する文字が建物の壁の上で消えかかっており、その下に新しい字でSchuman
と記されている。どうやらその昔は地場の魚を食べさせる日本の川魚料理屋みたいな店だったらしい。まるで、柴又みたいだ。ここらへんは洋の東西を問わず同じでなんだか嬉しくなる。
入り口の扉には鍵が。インターホンで開けてもらうのはイタリアの他のリストランテで体験済み。扉から続く階段を上がり、こじんまりした店内に。温められた空気がからだをふわっと包み、ようこそと支配人に迎えいれられる。漆喰の白壁に木レンガの床と垂木を見せた木の天井の内装は落ち着き、大きな絵画、それにグラスやワインを収めたガラス張りの大きな食器棚と、趣味のよいリネンで覆われたテーブルが並ぶさまはとても瀟洒でここちよい。
先ずはスプマンテで一息つき、突き出しをつまみながらメニューを眺めていれば、キッチンからまだ若いシェフが挨拶にでてくる。他のスタッフはイタリア語しかしゃべれないが、シェフは英語をしゃべる。料理の説明をひとしきりした後、わからないことがあったらいつでも呼んでくださいとしめる。そこからは、遠来の客を迎え入れる気持ちと、自分のところの料理を愛する気持ちが自然と伝わってくる。気分はリラックスし、美食の予感はますます高まる。
前菜はポルチーニのソテーと旬のアルバ産の白トリュフを載せたカルパッチョをそれぞれに。ワインはアマローネ。最初はわが家一組だった店には、そのうちにアベックが入ってきて、静かなピアノ曲のＢＧＭとイタリア語が混じり合う。そして、海老とからすみのパスタを食べる頃には教会の鐘の音も割り込んでくる。鐘も鳴り止み、耳を澄ませばカトラリーがお皿にあたる音とキッチンからの息づかい。異国の地での静かな静かなレストランでの暖かなディナーのひととき。おとといまでの日本での慌ただしい生活も雑事も何もかも忘れる至福のときだ。
あたかもジビエの時季。シェフのお勧めは猟師がピエモンテの山中で仕留めた獲物たち。今日は猪の仔。ソテーしたものを赤ワインベースのソースと共にいただく。付け合わせには赤キャベツのソテーと芽キャベツ、それにポレンタの他に、栗のグラッセと姫リンゴが。一皿にメインと沢山の付け合わせを盛り込むのは外国ならでは。目にも楽しく、食べて美味しい一皿。
デザートも食べ終える頃には小学一年生だった娘は時差に打ち勝てず、すっかり寝入ってしまった。支配人が娘を車まで抱き抱えてくれてお見送り。
正直言って、猪の料理の味の記憶は薄れてしまった。でも、この店でのホスピタリティーと静かで暖かいディナーの記憶はいまだ薄れることがない。多分、それは今まで体験したレストランの星の数ほどの記憶の中でもベストのものだろう。今回はいつか記してみたいと思っていたこの店のことを猪にかこつけて記してみた。
